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2010年9月3日金曜日

日本の医療保険の成立

2009年6月2日に横浜が、7月1日に函館が開港150周年を迎える。幕末の1859年(安政6年)に発効した「安政の5ヶ国条約」により日本の鎖国状態が解かれて以降の近代化の歴史の歩みと重なる激動の150年間であった。同年10月にはアメリカより神奈川にJ.C.ヘボン医師が来日し、以後西洋医療の導入が急速に進み始めた。1868年の明治維新以降、明治政府は西洋医術を修めた者に医師免許を与えて開業を奨励・援助し、その後の開業医制度を基本とする医療制度に道を開いた。
今日の医療を考える上で欠かせない我が国の医療保険の成立は、日本の資本主義の発展を待って第一次世界大戦後のこととなる。第一次世界大戦(1914ー1918)の惨禍は世界の国々に革命的危機を誘発し、1917年のロシア革命は世界中に波紋を広げた。我が国でも労働・社会運動の高まりに対応すべく、1922年に我が国最初の医療保険法である「健康保険法」が成立した。多くの制約があったが、中規模以上の民間企業の労働者に初めて医療保険の給付を受ける機会を与えるものであった。
1923年の関東大震災により第一次大戦後の不況は一段と深刻となり、当時我が国の人口の半分を占める農村の窮乏が進んでいたところへ1929年アメリカ発の大恐慌が日本にも波及した。アメリカ市場に依存していた主要輸出品の繭と生糸の価格が暴落し、農民の窮乏は悲惨を極め、栄養失調と結核が蔓延し、医療費の支払いが滞ったため開業医の離村がすすみ、無医村が増え、適切な医療も受けられない状態となった。
1937年の日中戦争勃発以降の戦時体制下にあって軍事大国化を急ぐ日本にとり、農村の健康破壊による徴兵検査合格率の低下は大きな問題であったため、1938年「国家総動員法」とセットの形で「国民健康保険法」が制定され、この制度を普及する目的で「厚生省」が創立された。これにより1922年の「健康保険法」によってカバーされなかった農民や都市の零細経営・不安定労働者も包含する国民皆保険が成立するが、これは戦時体制における国家統制と表裏一体であったことは注目すべきである。
急激な制度の普及に伴う強権性は制度の空洞化を招くものとなった。最大の問題は厚生省の強要した実勢料金を大きく下回る低診療報酬が医師の非協力を招いたことである。また戦争末期の極度の物資の不足のため、事実上医療の給付は不可能な状態であった。当然の結果として、1945年の敗戦とともに国民健康保険制度は崩壊し、戦後1958年になって現行の「国民健康保険法」が成立することになる。
2008年アメリカ発の不況が今日の日本にも波及している。歴史は繰り返すというのは事実だが、決して同じ繰り返しがないというのも事実である。我が国の医療保険がよりよい方向に向かうよう積極的に関与を続けなくてはならないと思う。そして2059年の開港200周年を晴れやかな気持ちで迎えられるように祈りたい。(日臨内ニュース「万華鏡」2009年6月)

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