2010年9月15日水曜日

神奈川県内科医学会会報第33号の編集後記

 とにかく暑い。ワールドカップの決勝トーナメント進出を振り出しに記録的猛暑となった今夏、当初7月刊行予定が太平洋高気圧に押されて10月刊行になったわけではないのですが、秋の気配とともに神奈川県内科医学会会報第33号をお届けします。
 中会長を交え情報広報委員会での協議の結果、年間の活動をよく収録するために、会報の発刊は毎年10月という方針に変更になりました。それに伴って神内医ニュースは1月、4月、7月発刊となります。内容の充実を支えるのは、先生方の貴重な原稿です。なにとぞご支援ご協力お願い申し上げます。
 神内医ホームページ(http://kanagawamed.org)のみならず、ツイッター(http://twitter.com/kanagawamed)でも機動性ある情報発信を行いたく、そのための情報を"@kanagawamed"で頂戴できれば幸甚です。

2010年9月3日金曜日

特定検診・特定保健指導をめぐって

 来春より始まる特定検診、特定保健指導の目的は「医療費の削減」であり、生活習慣病の有病者・予備軍を2015年において25%削減するという野心的なものである。今までも医療分野の抑制政策を続けていたが、最早これも限界に達し、今度は保健分野の疾病予防へと大きな方向転換を図ったものといえよう。新制度に伴い、市町村国保、国保組合、健保組合、政府政管健保など保険者は健診と保健指導を外部委託することになる。また現在の基本検診事業はこれに吸収されて消滅する。
 日本人間ドック検診協会(笹森典雄理事長)が、過去1年間に全国12ヵ所の大手健診機関で人間ドックを受診し、特定健診の方法に準拠した検査を受けた約5万3000人分のデータを分析した結果、血圧や中性脂肪、血糖などの検査数値について厚生労働省が特定健診の結果、医療機関を受診する目安として定めた「受診勧奨判定値」を一つでも超えた受診者の割合が49.7%、65歳以上の高齢者では54.6%だった。中高年の約半分を占める人数である。
 これらの人々が医療機関を受診すれば、厚労省の意図する医療費の削減どころか、医療費の高騰につながる恐れがある。また医療スタッフの不足や過重労働が問題視されている情勢にあって、医師を含めた医療スタッフがこれらの人々に十分な時間をかけた保健指導ができるのだろうか?笹森理事長は「厚労省の定めた判断値を超えても一律に病院を勧めるのではなく、保健指導で生活習慣を変えるように促すことが大事」と話している。(読売新聞より)
 国は2012年までに40〜70歳を対象にした特定検診実施率65%、特定保健指導実施率45%、メタボリックシンドローム該当者の減少率10%の幅で、後期高齢者医療制度への支援金を加算するペナルティを科す方針とのことである。
 保険者によるペナルティの受け止め方に温度差があるかもしれないが、今まで以上にメタボ対象者に対する保健指導の圧力は高まるものと予想される。このことが人々の疾病予防という本来の目的につながれば良いのであるが、健診や保健指導を受けなかったり、保健指導の効果がない人に「健康自己責任論」のもとでペナルティが転嫁されるようなことがあってはなりないと思う。またメタボと同様以上に悪い影響を及ぼしている喫煙に対する取り組みが弱い印章がある点も気になる。禁煙の推進を特定検診、保健指導の中でさらに強く位置づけるとともに、タバコの値上げや職場や公共の場での喫煙の制限といった社会的整備を勧めることが重要であると考える。

【参考】厚生労働省「特定検診・特定保健指導の円滑な実施に向けた手引き」
http://www.mhlw.go.jp/bunya/shakaihosho/iryouseido01/info03d.html   

(日臨内ニュース「万華鏡」2007年10月)

日本の医療保険の成立

2009年6月2日に横浜が、7月1日に函館が開港150周年を迎える。幕末の1859年(安政6年)に発効した「安政の5ヶ国条約」により日本の鎖国状態が解かれて以降の近代化の歴史の歩みと重なる激動の150年間であった。同年10月にはアメリカより神奈川にJ.C.ヘボン医師が来日し、以後西洋医療の導入が急速に進み始めた。1868年の明治維新以降、明治政府は西洋医術を修めた者に医師免許を与えて開業を奨励・援助し、その後の開業医制度を基本とする医療制度に道を開いた。
今日の医療を考える上で欠かせない我が国の医療保険の成立は、日本の資本主義の発展を待って第一次世界大戦後のこととなる。第一次世界大戦(1914ー1918)の惨禍は世界の国々に革命的危機を誘発し、1917年のロシア革命は世界中に波紋を広げた。我が国でも労働・社会運動の高まりに対応すべく、1922年に我が国最初の医療保険法である「健康保険法」が成立した。多くの制約があったが、中規模以上の民間企業の労働者に初めて医療保険の給付を受ける機会を与えるものであった。
1923年の関東大震災により第一次大戦後の不況は一段と深刻となり、当時我が国の人口の半分を占める農村の窮乏が進んでいたところへ1929年アメリカ発の大恐慌が日本にも波及した。アメリカ市場に依存していた主要輸出品の繭と生糸の価格が暴落し、農民の窮乏は悲惨を極め、栄養失調と結核が蔓延し、医療費の支払いが滞ったため開業医の離村がすすみ、無医村が増え、適切な医療も受けられない状態となった。
1937年の日中戦争勃発以降の戦時体制下にあって軍事大国化を急ぐ日本にとり、農村の健康破壊による徴兵検査合格率の低下は大きな問題であったため、1938年「国家総動員法」とセットの形で「国民健康保険法」が制定され、この制度を普及する目的で「厚生省」が創立された。これにより1922年の「健康保険法」によってカバーされなかった農民や都市の零細経営・不安定労働者も包含する国民皆保険が成立するが、これは戦時体制における国家統制と表裏一体であったことは注目すべきである。
急激な制度の普及に伴う強権性は制度の空洞化を招くものとなった。最大の問題は厚生省の強要した実勢料金を大きく下回る低診療報酬が医師の非協力を招いたことである。また戦争末期の極度の物資の不足のため、事実上医療の給付は不可能な状態であった。当然の結果として、1945年の敗戦とともに国民健康保険制度は崩壊し、戦後1958年になって現行の「国民健康保険法」が成立することになる。
2008年アメリカ発の不況が今日の日本にも波及している。歴史は繰り返すというのは事実だが、決して同じ繰り返しがないというのも事実である。我が国の医療保険がよりよい方向に向かうよう積極的に関与を続けなくてはならないと思う。そして2059年の開港200周年を晴れやかな気持ちで迎えられるように祈りたい。(日臨内ニュース「万華鏡」2009年6月)

2010年9月2日木曜日

「生物と無生物のあいだ」 福岡伸一 講談社現代新書

「生命とは何か」という問いに対して、古来より様々な考えが示されてきた。宗教的・哲学的な考察の例は枚挙にいとまがないが、筆者は分子生物学者であり、現代科学の到達点から見えてきた新しい生命観を伝えようとしている。
 近代科学において生物とは「自己複製を行って増殖しうる」ものとして定義されてきたが、核酸の断片にすぎないウイルスという病原体の発見により、生物の定義の揺らぎが生じてきた。ウイルスは結晶化することも可能なきわめて物質的な特性をもつが、細胞に「寄生」(というより遺伝情報の注入)という方法で「自己複製」し「増殖」することも可能だ。はたしてウイルスを生物とみてよいのだろうか?筆者の考えではウイルスを生物とみることはできないという。そこには筆者が生命の特徴ととらえる「動的平衡」がみられないからである。本書の目的は、この「動的平衡」について語ることにある。キーワードは「平方根の法則」と「熱力学第二法則」である。

 われわれ人間はまぎれもなく生物であるが、これを究極的に分解すれば原子に還元される。そして誰も原子を生物であるとは考えない。核酸も単なる分子で、核酸の配列であるDNAも遺伝情報の記録に過ぎず、生物といえないことは先にウイルスの例で示されたとおりである。では細胞はどうだろうか?単細胞生物は地球上に大量に存在し、細胞は間違いなく生物といえる。だとすれば生物と無生物を分けるものは、DNAより大きく細胞内の主要構成物である、高分子の蛋白質あるいは蛋白質によって構成される細胞内器官にあるのではないか。

 「平方根の法則」とは、原子の集団の平均的な運動から外れた運動をする原子は、統計的に全体数の平方根の数に相当するというものである。よって構成する原子の数が少なければ、その原子の集団はランダムで不規則な動きとなり、構成する原子の数が多くなるにつれ、その集団は整然と規則的な動きとなるのである。生命現象の重要な部品である蛋白質が、正確な生化学反応を担うために、多量の原子から構成される高分子でなければならない理由が、単純な数学的規則から導かれる。

 「熱力学第二法則」とは、すべての原子やエネルギーは常に乱雑さが増大する方向へ進むというものである。乱雑さが極限に達し一様な状態になると、エントロピーが極大になったと表現する。生物にとって体内のエントロピーが最大化することは個体の「死」を意味する。よって生命現象はこの法則に逆行して、乱雑さが減少する方向へ、すなわち自らの内部のエントロピーが減少する方向へ常に進んでいる。

 生物は蛋白質というエラーを起こしにくい精密部品を用意するだけでは満足せず、絶えず増大するエントロピーを積極的に減少させる仕組みを備えていることが、重窒素でラベルした食物を与えたマウスでの実験によって示された。窒素は全ての蛋白質の成分だが、ラベルされた食物を摂取後、短時間でマウスの全身の蛋白質に重窒素の信号が出現したのである。

 このことは生物のあらゆる蛋白質は、古くなったり傷ついたりしたものだけでなく、新しいものも含めて絶えず作り直されて交換されていることを意味する。あたかも川の形は変わらないように見えても、川の水は流れ、瞬間瞬間に新しいものに置き変わっているようなものである。これによって川の水は濁らず、生物は体内のエントロピーの増大を積極的に排除しているのだ。

 新しい生物の定義を以上のような「動的平衡」に求めようとしている筆者であるが、本書に野口英世からノーベル賞のワトソン・クリックらも含む現代生物学の発明発見史を織り込むと同時に、彼らの人間的なエピソードや秘話、研究のダークサイドの暴露も加え読みあきさせない。筆者が研究生活のあいだ過ごしたニューヨークとボストンの光景の描写も美しく、読後に深く静かな印象を残している。
(神内医ニュース「この一冊」2010年10月)
 

2010年9月1日水曜日

2

 「生命とは何か」という問いに対して、古来より様々な考えが示されてきた。宗教的・哲学的な考察の例は枚挙にいとまがないが、筆者は分子生物学者であり、現代科学の到達点から見えてきた新しい生命観を伝えようとしている。
 近代科学において生物とは「自己複製を行って増殖しうる」ものとして定義されてきたが、核酸の断片にすぎないウイルスという病原体の発見により、生物の定義についての考え方の揺らぎが生じてきた。ウイルスは結晶化することも可能なきわめて物質的な特性をもつが、細胞に「寄生」(というより遺伝情報の注入)という方法で「自己複製」し「増殖」することも可能だ。はたしてウイルスを生物とみてよいのだろうか?筆者の考えではウイルスを生物とみることはできないという。そこには筆者が生命の特徴ととらえる「動的平衡」がみられないからである。本書の目的は、この「動的平衡」がどういうものであるかを語ることにある。キーワードは「平方根の法則」と「熱力学第二法則」である。
 われわれ人間はまぎれもなく生物であるが、これを究極的に分解すれば原子に還元される。そして誰も原子を生物であるとは考えない。核酸も単なる分子で、核酸の配列であるDNAも遺伝情報の記録に過ぎず、生物と考えられないことは先にウイルスの例で示されたとおりである。では細胞はどうだろうか?単細胞生物は地球上に大量に存在し、細胞は間違いなく生物といえる。だとすれば生物と無生物を分けるものはDNAより大きく細胞内の主要構成物である、高分子の蛋白質あるいは蛋白質によって構成される細胞内器官にあるのではないだろうか。
 「平方根の法則」とは、原子の集団の平均的な運動から外れた方向への運動をする原子は、統計的に全体数の平方根の数に相当するというものである。したがって構成する原子の数が少なければ、その原子の集団はランダムで不規則な動きとなり、構成する原子の数が大きくなるにつれ、その集団は整然とした規則的な動きとなるのである。生命現象の重要な部品である蛋白質が、正確な生化学反応を担うためには、多量の原子から構成される高分子でなければならない理由が、実に単純な数学的規則から導かれる。
 「熱力学第二法則」とは、すべての原子やエネルギーは常に乱雑さが増大する方向へ進むというものである。乱雑さが極限に達し一様な状態になると、エントロピーが極大になったと表現する。生命現象はこの法則に逆行して、乱雑さが減少する方向へ、すなわち自らの内部のエントロピーが減少する方向へ常に進んでいる。