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2016年10月22日土曜日

プロコフィエフ(1891~1953) 交響曲 第6番 変ホ短調 作品111 (約41分) NHK交響楽団

国外で活躍していたプロコフィエフが祖国に完全帰国したのは、ショスタコーヴィチの《オペラ「ムツェンスクのマクベス夫人」》が共産党機関紙『プラウダ』紙上で批判され、大粛清が頂点に達した1936年である。とはいえプロコフィエフが政治的に盲目でなかったことは、彼が帰国後から積極的にスターリンや共産党を讃美する作品を折に触れて発表したことからも推察される。そして彼が待ち望んだ栄誉をようやく手にしたのは、1945年3月3日、ドイツ軍のレニングラード(現サンクトペテルブルク)敗退に全モスクワが沸き立つ日に、自ら初演した《交響曲第5番》の成功によってであった。モダニズム時代の斬新(ざんしん)な曲想と、体制側が求める楽観的で英雄的な様式を絶妙にブレンドしたこの作品で、プロコフィエフはスターリン賞第1席を授与された。
 つづく《第6番》は終戦直前にスケッチが開始され1947年2月に完成、ムラヴィンスキーの指揮で10月にレニングラード、12月にモスクワで初演され、各地で予想を上回る成功を収めたが、これがプロコフィエフ最後の栄光となった。戦時中に緩められたイデオロギー統制を再び引き締める動きはすでに他の分野で進行していたが、1948年2月にはついに音楽にも及び、指導的作曲家のほとんどが戦時中の創作を批判された。むろん、プロコフィエフも例外ではない。《交響曲第6番》はレニングラード初演からわずか4か月で演奏レパートリーから消え、生前、作曲者が耳にすることは二度となかったのである。
 当初から、この交響曲の陰鬱(いんうつ)で晦渋(かいじゅう)な表情は批評家を当惑させた。戦時中の英雄的な闘いを描いた前作に対して、《第6番》を戦争の不安や悲しみに焦点を当てた作品と解釈することも多いが、むしろ作曲家がレニングラード初演の前日に第2の妻ミーラ・メンデリソンに語った次の言葉が示唆的であろう。フィナーレの終結部に唐突に挿入される不協和音についてである。「(フィナーレでの)永遠に対して投げかけられた疑問に注意を向けてくれたかい?」──その後、プロコフィエフはこれが「人生の目的に関わる疑問のひとつ」であることを明かしたという。この言葉を敷衍(ふえん)すれば、この曲が表現しているのは、具体的な戦争体験が昇華された人間の生と死に関わるより普遍的で哲学的な問いということになろうか。この交響曲の謎めいた相貌(そうぼう)の奥には、激動の時代を生きた人間の真摯(しんし)な思索の跡が刻み込まれている。

第1楽章 アレグロ・モデラート、変ホ短調、6/8拍子、3つの主題によるソナタ形式。低音の金管による謎めいた序奏につづき、ロシア民謡風の第1主題が弦楽器で提示され、様々な楽器で反復された後、オーボエによる孤独な表情の第2主題が奏される。どちらも暗い叙情性を湛(たた)えた旋律で、あらためてプロコフィエフがロシアの作曲家であることを再認識させられる。第3主題はピアノとファゴットの刻む行進曲風のリズムを伴って現れ、ようやく希望の兆しを伺わせるが、展開部では第1主題の緊密な動機労作によって容赦なく歩みを進め、モダニズム時代のプロコフィエフを彷彿(ほうふつ)させる壮絶なクライマックスにいたる。彼はこの後ホルンが奏する「喘息(ぜんそく)の喘(あえ)ぎ声」のようなパッセージに対して特別の注意を喚起したという。
第2楽章 ラルゴ、変イ長調、4/4拍子、ソナタ形式。異様な熱気に満ちた序奏につづき、第1主題がヴァイオリンとトランペットで、第2主題(属調の変ホ長調)はチェロとファゴットにより提示される。引き続き両主題が短く展開された後、ホルン四重奏やハープとチェレスタのアンサンブル等、《バレエ音楽「ロメオとジュリエット」》の「バルコニーの場面」を彷彿させる印象的なエピソードを経て、第2主題から第1主題の順に再現される。
第3楽章 ヴィヴァーチェ、変ホ長調、2/4拍子、ロンド・ソナタ形式。この形式を得意とするプロコフィエフの面目躍如とした音楽であり、特にハイドン風のロンド主題と行進曲風のエピソード主題が重なり合う展開部の躍動感は圧巻である。ところが、音楽はいつしか第1楽章第2主題の孤独なつぶやきに道を譲り、やがてロンド主題の一部を拡大した動機を全オーケストラが絶叫する痛切なクライマックスに至る。あまりにも断絶した表情の落差を埋めることなく、冷徹なリズムと不協和音が最後へと煽(あお)り立てる。

作曲年代:1944年からスケッチ開始、1947年2月完成
初演:1947年10月10日、ムラヴィンスキー指揮、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団、レニングラード(現サンクトペテルブルク)にて
(千葉 潤)

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